北のカラマツ日記


2004年
09月24日
更新

釧路の秋はサンマが旨い。デカサ安さは無論、甘いサンマってわかりますか?きのうの夜は某居酒屋で刺身用を焼く、炭火でじっくり油がボウボウ早くやけろ〜。わずかにたらした醤油が堪らない、いっきにほおばれば、この上ない幸せ。昔と違い駅前の和商市場では勝手丼が人気。ごはんの上に好きなものを頼んでいく、おばちゃんが電卓たたきながら、まだいけるネ〜と商売上手。みやげは定番バラタラコ。形の悪いものをざっくり切っただけだから味は文句なし。通常の半値以下だからお買得。タッパに目いっぱい入れてもらって1000円。いつも家までもたず食べてしまいビールとよくあう。釧路駅にあった地下街が閉鎖された、あの異常とも思えた古臭さも今となっては懐かしい。厳しい季節の前の釧路はうまいものでいっぱい。東京からのフェリーも消え一段とさびしくなった気がするが、最果ての食の都は健在です。

2004年
09月15日
更新

所用で向った室蘭の帰り、白老町にある「ポロト湖」に寄ってみた。天気にも恵まれ自然の色がまぶしい、冬期は通れない湖畔沿いの林道を進んでみると終点はキャンプ場。ごく普通の施設ながらその入口に湧水が噴出している。樽前山からのきれいな水である、これがポロト湖へと流れこみ美しいみなもを作りだしている。芝生に寝転べばオゾンの濃さと草木の匂いに癒される。静態保存されている333号機は函館本線山線で活躍したカマ。お召し列車を牽引したことでも知られている。北海道のカマは湿度の関係で保存状態が良いものが多い、西日に照らされた動輪にしばし見入る。湖とSLはなんだか不釣合いのような気がするが、論ずるは贅沢。アイヌ部落でしられたこの白老も今の観光客の主体は修学旅行、昭和45年線路にC57がうじゃうじゃ走っていた頃はリュックを背負った若者たちであふれかえっていた。今は静かな思いでの地である。
2003年12月23日更新
根北線が廃止となって33年が経つ、昭和45年の夏、斜里駅ホームで越川まで行こうか迷っていた。そこえ、釧路行のC58混合列車が到着、居ても足ってもいられず乗車、無理もなかったとも思うが、欲に負けた自分が不覚であったと今も後悔。先日、雪に埋もれた越川のアーチ橋を久々に尋ねてみた。廃止直後は見事に連なっていたアーチ橋も国道への安全上から寸断された形になっている、一度も汽車が渡らなかったこの橋も遠く知床山系の原生林を超え、根室の国「根室標津」につながる予定だった、こう書籍類では紹介されているが、地元では当時、無理だよどうやって峠を越える?誰が乗る?って当り前のように言っていた、予定線では頂上部をトンネルで抜け、この手前に駅を作る予定だった。駅って誰が乗る?民家も一軒もない、道もない、道内最大の熊の生息地、多分乗客は熊・エゾ鹿・キタキツネ(えーぼくも乗れたのー/ゴン吉!おまえは生まれてない)・エゾリス・そしてシマフクロウだろう・・・、でも本当は繋がってほしかった、根室標津は海抜0メートル、もしここをC11の引く貨物列車が通ったならば・・・あーいかんいかん、重連でスイッチバックおまけに後部補機、そんな事想像しちゃいかん。常々この「根北線」本当に厚床から全通していたならば、興浜南北線の全通もあったに違いないと思ってしまう、根室本線・標津線・根北線・釧網本線・湧網線・名寄本線・興浜線(仮称)・天北線実に8線にまたがる、総称「オホーツク本線」が出来たかもしれない、正調・急行「オホーツク」は根室発稚内行、方向転換もなんと5回になる。朝1番に出発すればなんとかその日の内に稚内にたどり着けたかも知れない、これが空想の元である。話は戻るが、前から気になっていることがある、この橋を含め建設時の過酷労働による犠牲者が人柱にされている(地元のとうさん・かあさん達が言っている)物が文化財とはどういうことなのか、確かに歴史を語る上で重要なものである事は認める、でもそれでいいのか、日本人じゃないからいいのか、判らなければいいのか、それは違う。文化財にしなければ保存が出来ないのか、それも違う。鉄道遺産に対する評価の仕方が余りにも安易で低すぎるのにはむなしさばかりが残る。切り立ったアーチ橋跡は発射台のようにも見えるが、今の混迷深まる政治を見て、静かに考え直せと訴えているように見えてしかたがない。

2003年
12月8日更新
その1

鉄火面とツインクルレディーこれをずっと前から狙っていた、手稲方から入線、通り過ぎる特急に一礼、ドンピシャ会心のワンショットと思わずほくそえむ。そう今夜は銀河線に乗りに行くためリュック姿、ビールと北海道一まずい駅弁を買っていざ乗車。ほろ酔い気分の中越でふと店にメールを打ってみる「上川から唸りを上げて中越へ登って来たオホーツク7号は上りオホーツクと交換のため5分停車、外は吹雪、暖房はむせかえるように熱い、車内はだんだんけだるさが充満してきた、昔はどの列車にもあったことだが、近頃はどれもスピード化で、そんな体験も出来なくなってしまった。でもここは石北、雪深い暗い川沿いをのろのろと遠軽へ向かう、唸ったり・絶気したり」なんてひとりでその気になっている、わかっていても北見は遠い、することもなくなり、あれもこれもといろいろ車内販売で買込みながらツインクルのお姉ちゃんにちょっかいを出す、おやじのいやらしい目つきは当然だがこれも仕事、見たくて見ている訳じゃない(ほんとー/ゴン吉!おまえは出て込んでいい)肩のパットが大人っぽいなーとか感想いろいろ(それって仕事じゃないっすょ/殺す)現役の知人から聞いた話だが、この仕事とてもきついらしい、とくに網走方面は最悪らしい、下請けで文句も言えないし、女同士の戦いはあるし、とにかく大変な仕事である事に違いはない。寒風吹き込むグリーン車ドアに立つその唇は真っ青である、おじさんが守ってあげたくなるツインクルレディーも今日は北見泊り、しっかり同じホテルである。翌朝鮭がメインの和朝食を食べてから北見・美幌散策へ、実はこの季節以外といいことがある、それは積雪の割りには以外と天気がいい日があることだ、少し山側に車で上れば北見盆地は絵葉書状態である、そしてその通りだった、駅レンタカーも交渉すればかなり安くなる、職員の人はもう限界という言葉を3回使ったが、結局破格で大型車の新車をゲット、言って見るものだ、ところで駅近くに旧機関区での転車台・給水塔がそのまま置いてある、さすが北海道である。旧官舎跡にある慰霊碑には煙室扉ごと展示がされてある裏には昭和55年と記されていた→つづく


2003年
12月8日更新
その2
そして本日のメイン銀河線に乗る、北見駅の甘いかに飯とお茶を買込む、どっかの札幌駅のようないんちき容器でなく、昔のタイプ当然コーヒーカップのような形などしていない、小机によく似合う。先日お別れ運転したはずの999号が平然と入線、他のCRとの2輌編成である、リュックをしょいながら喜んで座っていると「池田まで?」ときかれる、さては置戸切離しだなとと直感、面白くなった来た。冬の日暮れは早い、出発して北光社に向かう頃には、どんどんと陽が沈んで行く、熱いお茶をすすりながら男ひとり旅真っ最中と自己満足、澄んだ空気が寒さを加速する、やがて車内の窓は氷つき、過ぎ行く踏切の灯かりが飛んでゆく、運賃表示機がなければどこを走っているのかもわからない。天井の松本零士さんのサインの横にこう書いてあった「夢は終着駅に必ず着く」と・・・、この季節のこの夜だからなんだか素直な気持ちになれる、ぴったりだなと・・・、気持ちだけは少年のように染まりつつ「訓子府」へ7分停車である。左上の画像がそれである、あまりの美しさに声が出ない、まさしく銀河線の駅である、凍てつく大地に満天の星たち、光る尾灯は夢の終着駅を掻き立てる、来て良かった。これでもまだ17時前、車内には思ったよりの乗車率、CRもビュンビュン飛ばすし存在感充分、置戸に向かう途中の車内では早くも折返しの準備、置戸以遠の乗客を先頭車両に移し貫通扉を閉める、未清算の人も早くも料金箱へ片道770円の旅である。約20分後解結された999号は北見へ戻る、出発前運転手さんが見てみろと指を差す、目の前には大きな大きな満月があった、北の国からでもあるまいし、こんなドラマみたいな偶然がと思うほどだ、どこに帰ると聞かれ札幌という、そうかオホーツクだな接続の時間があまりないなと言いつつ、気持ち速度が上がっている、記念だこれをやるとおまけまでもらい、いつ来ても職員の人達の暖かさを感じる、話がはずみ時間にも間に合う、でも何故か前を見ていない「あのー車止が見えてるんだけど・・・」と心で叫びつつ、体で覚えているんだぜと言わんばかりに「気をつけてと・・・」お世話になりました。また乗りに来ます、ずっーと乗りに来ますと思う店長浅香でした。がんばれ銀河線!


2003年12月8日更新
 
札幌は味噌ラーメンの本場ですが、時々むしょうに「塩」が食べたくなる。そんな時は割引切符を買って、酔わない北斗(183)に乗車する。振子はとにかく気持ちが悪い、本なんか読んでいた日には、こみあげてくるものがあって・・・。その点、北斗の喫煙車の17Aを指定すれば、ご覧のように座ったままの展望、中々いい感じだ。函館駅も綺麗になってしまったが、何をテーマに何がしたいのかわからない陸別の田舎の駅がそのまま大きくなったようなもの、函館なんだからと言いたいところだ。ところで動輪はどこへ行ってしまったのだろう・・・(注:ないないカラマツにはない)とにかく「塩」を食う、もちろん海峡らーめんだ、味もそこそこだが、なにより喰いながら海が見えるのがいい、らーめんにもロケーションが必要だと知る。汗をいっぱいかいて外にでる、冷えた風が堪らなく気持ちいい、風よ冷やしてくれ!もっとほてったこの体を、ちがうか・・・。ひとっ風呂浴びに湯の川温泉へ市電で行ってみる、札幌市電と違って、運転士さんの乗降りの気ずかいがうれしい、バックミラーでしっかり確認している、札幌はだいたいだからナ。平日の昼間なんて客もいる訳無く、ホテルのロビーにひとりでいるのも照れる、とっとと湯に浸かる「あー幸せ」これから一段と温泉にはいい季節だなーなどとひとりごと。またまた腹が減ったので、みかどさんの駅弁を買込む、そうそうぜんぜん関係ないが、いつも思うことがある、それはこの駅のデカサの割りにトイレがとても少なく狭いということ、団体客でもいた日にはパンク間違いなしだ、フリースベースもいいが基本的なところがちがわなくは無いか・・・来る度に思う。旅情の入口だった函館駅、おれにも青春18の時代はあった、時代の流れなんだろんが堪らなく寂しい、旧駅の隣に昔パチンコ屋があって補導されそうになった事を思い出した。思い出とはこんなものだろう、過ぎるから消えていくから思いが生まれるのかも知れない。
2003年11月25日更新
 2005年度をメドにふるさと銀河線の廃止・バス転換に対し、道は正式に転換指示を表明といよいよ渦中の銀河線も秒読みに入ってきてしまいました。そんな決定の少し前、店の休みを利用してぽっつりと札沼線の奥地まで行ってみました。何も無いのはわかっていたもののやはり何も無く、晩秋の石狩は「寂しい〜!」って感じでした。忘れた頃にやってくる単行の40も乗客は殆ど無く、行過ぎた列車のを後を振り返ればひょろっとよれよれしたレールの上をふらふら揺れながら小さくなってゆきました。ここも大丈夫なのかなぁ…と思ってしまう札沼線の奥地です。中小屋駅に寄ってみれば日帰り温泉の案内板。行く所も無くタオルも無いのについつい寄ってみる。愛想のいいオバちゃんが受付に…。「ハイ、400円です、今日は貸切ですよ!」と言われ、ヤリィ!とおもいつつ露天風呂へ。目の前が川、そして密度の濃いヒンヤリとした空気が火照った体に気持ちよくなんかの〜んびり。日ごろ目的だらけの毎日や仕入れから開放されて思いっきり不発の一日もいいかな!?と感じる。夕暮れの石狩の田んぼにはモヤがかかり、北海道の田舎という感じでイイカンジでした。左の石狩川にももうじき鮭が遡上します。北海道はこれから本格的な雪の季節です。
またしても日記がだいぶ空いてしまいました。できる限りがんばりますのでどうぞよろしく…。


2003年2月17日更新
根室本線の大動脈だった「滝川」からまたひとつ灯りが消えてしまう・・・JR北海道バス滝川営業所がこの3月いっぱいで姿を消します。
ここ函館本線滝川駅は距離にすればいくらもない札沼線との深い係わりがあって、
過去の2転3転した札沼線運営問題や、地元地域民の足として「バス」がその代用策として古くから活躍をしていました。進む利用者減少に歯止めが効かず、この日も
利用客の姿は殆ど見ませんでした。ちょっと足を伸ばして営業所にお邪魔したものの
広ーい車庫にはポツンと3輌の車輛だけが待機していて、整備車庫は職員の駐車場
がわりになっていてなんか淋しい感じでした。
この季節行くにはちょっとという時期ですが、もし時間があればぜひ乗ってみませんか
石狩の平野の中を雪一色の雨龍の山並みを見ながらどうですか?
周遊券の時代も今も、このブルーと白のバスが好きです、このバスを見ると
非営利バスと思えてしまうのは自分だけかナーって思ってしまう・・・

帰りは駅内にあるいつもの立ち食いそば屋、中々ですヨ、ここで腹ごしらいをしてから
一路札幌へ、白い雪にはやっぱり711この朱色が堪らない、寒風の中飛び込んだ
車内の中は、あの独特の匂いとムワーっとする暖気が待っていてくれました。
これが滝川営業所の最後の雪です、ご苦労さまでした。


2003年2月11日更新
小樽の中でも、観光地化されていない往時を偲べる所はここ「南小樽」ぐらいになってしまいました。そこで今日は歴史有る南小樽駅のご紹介です。廃線となった手宮線があった頃は分岐駅と言うだけでなく小樽交通の中心地として栄えた・・・へぇー、なんてかたぐるしい書き方はやめて実はこの駅、中々おもしろい。どうしてかと言うと改札口周辺こそ、綺麗になったものの、殆ど昔のままでじっくり見ていると懐かしいものだらけ、袴線橋は手宮線ホーム用の下へ降りる階段を当時の作り同様に戻して塞いでいる、こう言うたぐいは普通現代風になっちゃうんだけどいい感じです。現行ホームへの階段部も横をそのまま斜めにしたようなレールの壁階段、今時見られないものです。駅入口に特に表記はありませんが、実は入口が2つある。狭い土地にとって付けたような駅だから想像も出来ないでしょうが、通称「裏口」と言うのがあって、画像のようにミステリアスな階段の向こうに出口があります。一見職員通路かなと思うほどで、案内もまったく無い。もっとうれしいのがトイレ、もちろん清潔ですが、あの時代のもの・・・?わかりますよネ。水洗になったばかりの頃のあのつくりです。んー旅に来たーって感じにしてくれます。そして忘れては入れない、改札口のおねえちゃん場違いというか、期待していなかったと言うか、目があってしまいつい「オレカ2枚」といってしまった。あー失敗、心の動揺を見破られてしまった、買わなくてもいいものを・・・。なんて訳で続編へ

左上/南小樽駅構内
左下/今も残る手宮線線路表示5灯式
下段左側/開拓の鐘
下段中央/小樽寿司屋街陸橋
下段右側/裏口への通路
右上/正面入口
右下/裏口駅名板
続編です。駅脇にある開拓の鐘、説明によると汽車が出発する際、手宮駅とここ南小樽駅で「汽車が出たぞ-」と言う合図でならしたらしい・・・ほんとー?すっごい離れているのに、思いっきり叩いたのか、それ程静かな時代だったのかは当然不明!ただ鉄道の原点を見たような気がした。そうそう突然だけど、裏口から歩いて10秒(んーカラマツより駅から近い!関係ないか)の「らーめん蔵屋」さん残念ながら閉店、明治時代の本格レンガ作りのお店だけだっただけに淋しい。この裏口周辺は何のお店もないけど木造の建物なんかは、おっとというものが結構残ってる、手宮線レンガ橋梁跡や労組関係の詰所もあって隠れた鉄道スポットかも知れない。
2003年2月7日更新
負けていません、こちらは札幌ファクトリーのイルミネーションです。今は大通りにみんな足が向いていますが、静かな光を放っていてとてもロマンチックですヨ。レンガ倉庫や、自然の木そのものに飾りつけをしているので、なんだか大人の雰囲気って感じです。ゆっくりと食事でもしながらいかがですか。ビールはもちろんサッポロビールですネ!
2003年2月5日更新

今年もいよいよ雪祭りの始まりです。ここの所イイ感じで雪も降り、夜はガッツリシバレテるし楽しいお祭りになりそうです。横断歩道では、さっそく転んでる観光客の人達もいます、おもいっきり転ぶと私は誰?ここはどこ?と一瞬感じますが、頭だけは打たないように!
雪像で一杯ですが、大通りのイルミネーションは中々のものです。すずらんの灯りの中に見えるのはテレビ塔で、本当に奇麗ですよ。くれぐれもひとりでは行かないように!ふと振り返ればアベックだらけ、一層寒さが身にしみます。カラマツでは期間中、かに汁サービス中でーす。
2003年1月30日更新  
所用で長万部へ・・・誰もいないホームそばに昂然と輝く季節はずれのツリーを発見!「長万部ファンタジー」とかで限定企画のようですが、とにかく見る人がいない、汽車がこない。国道からも離れているので、本当にだれもいない!立っているのも辛い程地面は凍り、刺さる風は2分とそこにいることを許さない、だけど美しい、男の私でも見ほれた瞬間でした。早朝小樽に着いたが、天気が良くってついついぶらぶらと・・・悪縁の小樽駅は今はとっても綺麗になりました。あの匂ってきた奥まったトイレへの通路も中々風情があったのですが・・・

今も残る筆文字駅名板です。観光ムードを前面に押し出している状況ですが、その昔は北海道を代表する始発駅でした。小樽に来れば何処へでも行ける、札幌に主役を奪われるまでは、ここからすべての長距離列車が出発した時代がありました。使われなくなった5番線は当時の名残りです。721が忙しく行き来してますが、C62がニセコを引いていた時代はここからDD51にバトンタッチして夜の札幌へと消えていったのです。
「手宮の空」

遠い遠い時代、北海道の鉄道は手宮から始まった。その頃なんてまったくわからないけど、線路と青い空だけは今でも残っています。晴れる事が本当に少ない小樽ですが、この空を見ていると何故か昼間から黄昏てしまう、それほど心が洗われるのです。中途半端な保存になってしまっている手宮線ですが、これもまた何故か落ち着くものがあるのです。この空と鉄の向こうに今でも開拓魂があるようで・・・

サブロウ生存!!おー生きていたかー帰ってきたぞー。南極観測隊の太郎次郎にならって勝手に名付けたサブロウー(飼主さんゴメンナサイ)相変わらず狂暴でした。せっかくHPに登場させてあげるっていってるのに、ったく・・・。今は雪で一杯なので道路脇にいますが、夏はもっと奥にいて手宮線を守っているのです。こいつはお菓子に弱いです。画像が今一つですが、DD14はやっぱり雪がいい・・小樽交通博物館に保存されているものです。地元紙では運営経費を巡っていろいろと取沙汰されています。保存の難しさがここにもあります。只今冬季休館中!
2003年1月26日更新
乗るなら711、早朝の札幌駅出発前です。砲弾形の2灯は711の顔、このガッチリとした国鉄形がやっぱりいい、車内で駅弁を食べているうちに苫小牧へ、王子製紙の支笏湖線で活躍したナローでお気に入りのカマです。お召し列車を牽引したこともある北海道の宝物です。
支笏湖まで交通手段がまだ無かった時代人員輸送は無論、樽前山を目指し林業や発電所開発では、大規模な三角線を要して大活躍しました。ぜひ寄って見て下さい。
駒ケ岳は噴火湾ごしに見るのが一番きれいです。函館を出発して、大沼公園て゜みんな「ウワ-」って思うでしょうが、海に浮かぶ駒ケ岳は利尻富士同様に息をのむものがあります。鉛色の景色の中、確かにそれはありました。画像でうまくお見せできなくて残念です、冬の北海道は厳しい自然の中にいつもあります、だから冬の駒ケ岳もこの景色が一番すてきな姿なのです。綺麗ばかりが美しいものでなく、心に伝わる時が美しい時なんでしょうネ。
その昔、森-室蘭間に航路があった時代は駒ケ岳航路とも呼ばれた事もありました。

いやー久しぶりと言うか、よく残ってたと言うかここは「国縫」です。
瀬棚線に長万部のC11が2枚岩の終点に向かってゴトゴト走っていた頃、よく来たものです。階段登り口にある、塗替えられた乗換案内板の下には今でも瀬棚の文字が読み取れます。「ピリカ」の駅名が大好きで、訳もなくよく降りました。川に架かる鉄橋でC11が止まったことがあります。エー何で、何でと思っていたら、機関士のおじさんがシャーッとやっていました。遠い昔の本当の出来事です。

本日はここまで・・・残りはあしたまで待って下さい。お待たせしました、続きです。現在の国縫駅は、ワンマンと快速アイリスしか止まらず画像のように車輛3両分の除雪しかされていません。サッポロビール付きの駅名板も1枚しかなく、淋しい状況です。今は除雪のお手伝いさん達の溜まり場となっていて、もちろん客などいるわけなく、5号線からの駅の入口すらもわからない、そんな国縫です。機会があれば、ぜひどうぞ駅舎前ど真ん中の腕木信号機が目印です。これはなかなかですよ。
まるでパリのアーチ橋のような、とても雰囲気のある、知る人ぞ知る4連橋です。乗用車1台がくぐるのが精一杯。トラックなら間違い無く激突です。いまどきの時代にこういう橋自体が残っていることが不思議です。4連橋といっても、この低〜い橋が4本かかっているということで、くぐってもくぐってもという感じで、スリル満点です。手前側は、既に、用地が転売されていて、新興住宅街となっています。その昔、D52やC62が、ドコドコと駆け抜けていった所です。さてここは何処でしょう。

旧五稜郭工場入口の堂々たる門跡です。昔のままのスライド式車輛運搬線や設備もそのままですが、なんといっても車輛の玉が少なくなった感じで、広さばっかりが目立ってしまいます。海峡の解体は、画像のようにものすごく組織的に・機械的にあっという間に進んでいきます。ヘッドの部分が、ごろんと転がっている姿はとても印象的でした。海峡以外にも各種の車輛達が解体されるのを待っていて、生まれる場所というよりも、終わる場所という感じで一杯でした。
6両の50系客車も、朝のヨーイドンから陽の暮れる4時頃には、しっかりと10トントラックの荷台に収まり、何も無かったかのよう似、錆ついた2本のレールだけが残っていました。
この日は、天気もいまひとつ、刺さるような寒風の中、職人のみなさんが、手際良く・感情もなく黙々と動き回っていました。ハークション!!!

解体線の隣りには、トキが2両留置されていて、久々に貨車を見ました。昔はこんなのゴロゴロで、目もくれなかったのに、時代が変わればしげしげと見てしまうものです。車輪の車止めが何だか悲しくて、それでも残っているだけでもましかぁーって、そんな感じでした。画像右の連結器は、50系のものです。シャケが産卵を終わった時、口を大きく開けたまま最後を迎えます。この連結器もそう見えてならないのは私だけでしょうか。
海峡ありがとう、ゆっくり休んでください。
2003年1月18日更新
苗穂駅が移転します。市電がまたやってきます・・・。苗穂の街は大きく変わるかもしれません。再開発の計画が、徐々に進んで、駅や駅前交番の保存も検討されています。鉄道の街が普通の街になりそうです。札幌駅寄りに立体化された駅ができるのも、遠い話ではないかも知れない。定鉄や千歳線の始発駅としての歴史有るこの平駅も、役目を終わろうとしています。「カラマツ日記」も「北のカラマツ日記」として、苗穂駅から再出発です。北海道の素直な姿を鉄道を通して書き続ける旅に出発です。
小樽から蘭島をすぎて倶知安に向かう途中、完全な旧客45系を発見。中はラーメン屋さんになっていて、味噌・正油・塩ラーメンや餃子があり、猛吹雪の中ホッとひといきつけました。座席も8脚残っていて、二重窓の雪景色を見ながら楽しいひとときでした。2月まで、特別キャンペーンだとかで、なんと1杯450円、この手のお店の味はと思っていたら、大間違い。超本格的な絶品でした。5号線を走る際はお見逃しなく。室内の昭和51年苗穂工場改造銘板がそのままで、よだれダラダラでした。
小樽の駅は人が来ない。待っている人が来ない。今から30年前、築港の機関区に勤めている叔父さんに会うために、リュックを背負って朝から待つものの夕方まで来ず。携帯電話などない時代だから、何かの理由で、きっと来れないのだろうと思って待ちつづけた・・・。今から25年前、東京の彼女と尾岱沼に行くために、その日の朝待ち合わせをした。夕方近くまで待つがそれも来ず。(東京からの八甲田が雪のため、10時間遅れだとは知らなかった)小樽の駅は縁がない。以来、絶対に待ち合わせをしないことにした。2回目も来なかった時、ひとりで余市のニッカ工場を訪ねた。当時、「男の酒・白ウイスキー」という透明な酒が密かにはやっていて、それを買った。何も知らない浅香は、ムッとしながら、カラマツの車中でウイスキーを片手に、ガラスに映る姿にバカヤローと言っていた。本当に久しぶりのニッカ工場です。門構えなど、何一つ変わっていない、当時のそのままでした。今は、某ビール会社の傘下ながら、道人にとっては、愛着の有る所です。
2001年2月20日更新
JR北海道主催の臨時急行「まりも」「大雪」が2月16-18日に道東1周リバイバル運行されました。カマは函区のDD511142に24系7輌。乗車人員約40名の贅沢ツアーでした。ところがとにかく寒い、2日目の夜釧路を北見に向って出発した車内は室温が下がるわ下がるわ。車掌いわく、トイレが凍りました、1号車しか使えません。ヒーターが凍りました。ふとんを2枚かけて寝てください。北斗星は札幌までしか考えて作っていないので、やっぱり道東はダメでしたネ。ちなみに夜間の外気温は-20度をはるかに越えていましたので、走行となればそれ以上だったはずです。楽しい寒かった思いでができました。
釧路に早朝到着後、夜まで一時解散、みな路頭に迷っていました。知ってかったる釧路、浅香は仲間内を引連れて、まずは市場でいくら丼にかに汁で腹ごしらえ。すぐさまレンタカーに乗込み、国後目指して出発!厚床では標津線の遺構アッシュピットを見学。雪まみれになりながらも、何やら氷の下に沈む謎の駅名板を発見!もしやして中標津?全員石をもって必死でガリガリみんなでせえのっと掘り出すと、ただの白板。そんなの有る訳ないよナと大爆笑しながら、旧隣接駅「奥行臼」へと1日6300円のレンタカーは走るのでした。左のC58は旧釧路工場に保管中のものです。状態は文句無しで、今にも走りだしそうです。
最後の廃線秘境「奥行臼」です。その昔訳も無く、列車に乗る訳でもなく、ただC11が来るのを待ってボーットボーット頭がばかになりそうな程ボーットしていた駅です。殆ど当時のままで、タイムスリップを体験出来ます。オホーツクの空気は一段とうまく、その上構内の設備も復元しているし、癖になっていまう所です。自信のない人は行っちゃダメです。その昔こそっと置いてきたファンタの大瓶ありました。それが自分のものだとしたら30年そのままってことです。どんな所かわかりますよネ。本当に遠いところですが、機会があったら遊びに来て下さい。
急行「大雪」遠軽駅でのカマの付替え光景です。
全く寂しくなってしまった構内ですが、このカマ変え光景だけは今も変わりません。
ここからは、かにめしとビールで峠に揺られていました。中越から先は記憶がありません。右側はふるさと銀河線です。かくして2泊3日の汽車旅は終了しましたが、当日のみなさんには大変お世話になりました。またどこかで会いましょう!
2001年2月6日更新
またひとつ思い出が消えていく「岩見沢第3車庫」解体始る!
SL全盛の車庫に入りきれない程のC57やD51がうようよしていた時代、常に機関区の中心はこの車庫でした。出入りが激しく風情があるとは言えなかったものの、今となれば完全に浮いてしまっている程懐かしい存在でした。老朽が激しく今後の利用予定もないため、早くから解体の噂が流れていました。昨日から一部レールの撤去が始りましたが、今月いっぱいをめどに完全撤去予定です。駅舎も燃え、おまえもか?と言う感じですが、時の流れです。岩見沢第1機関区本当にご苦労さまでした。
2001年2月1日更新
今だ残る「上砂川線袴線橋」
函館本線砂川駅には懐かしい上砂川線用袴線橋が健在です!もちろん使用は出来ませんが、広ーいヤードの向側からコトコト発車する姿は絵本顔負けでしたネ。ホームも残っており、今年の春はいっちょ歩きますか?このホームの住人カラスの親子は、かなり手ごわく襲撃してきますので、要注意です。
道内でも僅かに残るレンガ車庫
旧深川機関区跡に残るこの車庫はとっても雰囲気が良く、当時を偲ばせてくれます。雪が解けると隙間から中の様子が見れますが、当時のままでタイムスリップしたみたいです(但し、D51・D61はいません。当然か?)残念ながら開閉扉を木造から新しいものに交換してしまったようです。線路は切られたままですが、いつの日か、つながることを祈りましょう!
いくら作り物とはいえ、沿線一番の素敵な駅「えびしま」です。さすがにこの時期は観光客もゼロで寂しいです。わかっていてもどこか駅長さんを探してしまう不思議な所です。
ただのトンネル?・・・。大違い!!峠下トンネルです
常紋トンネルも中々のいちぶつですが、ここは露天掘りに直接レンガを貼りつけた、いびつなトンネル道内一なんです。きれいなアールどころかあっちこっちボッコリボッコリいかにも手掘りって感じで、当時の技術程度を感じられます。曲がりくねっていますので、万一通行の際は厳重注意で!
2000年1月19日
更新
「沈んだD51の謎」

先日釧路探索に行った際、線路脇の初老の店主から、とても面白い話しを伺いました。
それは昭和30年代初頭、釧路駅根室側側線での出来事でした。台風による大雨で側線退避中のD51が線路ごと地面に沈んでいったのです。当時その周辺は「底なし沼」と呼ばれ、釧路湿原内で有った事を物語っていました。事件前後にソリを引いた馬達も数頭沈んでいて、現在でもそのままになっています。スコップを持っていってみますか?ただし、あなた自身も沈んでしまわないように!
2001年1月19日更新
花咲線一番列車「快速・はなさき」からの夜明け前です。ウーこの言葉に弱い・・・。凍てつく大地に続く鉄路。アーもうダメこのパターン・・・。でもでもいつまでも残っていてほしいですネ。釧路支社は中央部の支社と違って、みんなで頑張っています。掲げた目標を達成出来そうなんだ・・・って運転士さんは前も見ずにニコって話していました。大自然を使ってって言うより、一緒に自然と企画させてもらっているって言うスタンスが成功しているんでしょうネ。北海道横断高速道の計画は実は根室まであるのです。釧路で打切りになってくれれば、こういった努力もあってきっと残ると思うのですが・・・。この冬、既に200頭のエゾシカを線路上ではねたようで、その中になんと熊も1頭いたとの事、はねてしまうと7分遅れると言いながら、見透視の悪いRでは、指示板より先を「出ちゃダメだぞ」と言う目で見ていました。そのやさしさきっと伝わります。ガンバッテ!花咲線!
厚岸湖に上る遅そーい日の出です。画像の100万倍きれいでした。C11を使っての企画が管内いっぱいですが、この美しい海岸線も忘れないでほしいですネ。最北の地の海岸線を走る路線もめっきり少なくなってしまいました。根室に向う男ひとり赤い日差しに目を細め・・・。アーーーシブ。
ノサップ岬北方領土館の双眼鏡から覗いた我が国固有の領土「水晶島」です。たった3Kmしか離れていないのに、今は行くことができず、ロシア兵が監視中です。最近待遇を巡って、島内で銃撃線があったようです。両国間の歴史が複雑すぎて、返還は難しいですネ。政治に口を挟むつもりはありませんが、本気で返還を要求するのであれば、歴史をきっちりとただし、決してワイロ等を含む一時的な漁業交渉などせず、ここは誰が住んでいたのか、誰が住むべきなのか、たとえそれが100年かかっても根本解決をするべきです。国策に不安を覚え、現地対応の実態を知るにつれむなしさが募るばかりです。
私が青年の頃お世話になった根室標津の第2の父さんもその昔、拿捕され何年も帰って来ませんでした。左腕に入った刺青は今も消える事無く、あの島はおれが住んでいた島だと言ってます。金の餌食にされた島だけど、帰れるのなら帰りたいと、その言葉が残ります。
流氷がそこまで来ていました。国土を示す国旗が、強風のため半分しか残っていませんでした。本気で交渉する気あるのか?
立派な記念館はいいから、大事な事をもっとしっかりしようよ
こんなことじゃ北海道だってロシア領になっちゃうぞ!
根室本線終点です。現在はここで切られていますが、その昔はもっと奥くまでありました。C58の機廻り光景が懐かしいです。日本中を網羅していた鉄道ですから、終点って聞くと、とっても魅力的ですよネ。ここがゴールかと思うと、急に帰りが寂しくなっちゃいますネ。道内の終点もここ「根室」「稚内」「増毛」「新十津川」「夕張」「様似」「室蘭」「函館」「江差」とその数もめっきり減ってしまい、特に当時のままの正調終点は「増毛」くらいになってしまいました。ここから鹿児島まで続いていると思うと・・・。
住むなら厚床・やるなら標津線をもう一度敷く、なんて本気で夢見た頃もありましたが、今は雪が解けたら全線歩きたいと思っています。いけないんだよナー標津線って、ほとんど施設が無いだけで完璧に追えちゃうから。それだけ必要も無いって事でもあるのだけど・・・。標茶といい、この厚床といい出発後暫く平走してました、よかったナー違う行先の線路が仲良く並んでて。画像の左まっすぐ進むのが標津線跡です。あーこっちいきたーい!。厚床駐泊所跡も既に無くなってしまってますが、アッシュピットだけは残っています。C11だから小型と思ったら大間違い、C58も乗っていたので大型です。この転車台はどこへ行ったと思いますか?
釧路白糠間が開通した明治時代、旧釧路駅は、これまた旧釧路工場跡付近にありました(現在はC58を展示公園になっている)。釧路の漁師は金の使い方を知らないとまで言われるほど、豪遊ぶりは有名でした。ビンテージサボをみても、その活気がどれ程のものであったかを伺えます。現行の駅も期待に応えるべく、当時の民鉄を加え7番線までようし、13輌編成が収まる2・3番線は今や立派な鉄道文化財でしょうネ。現在はホーム半分の電灯が消され使用されていません。暗いホームの奥から2番目の駅表だけ大昔のものが掛かっているのを発見しました。点灯させたら、さぞかし雰囲気あると思います。一転景気の悪さがこの状態を暫く維持してくれるかもしれません。最終おおぞら14号只今寝台券3000円で販売中乗ってネ。
2000年1月11日
更新
1月9日釧路運転所にて、最後のキハ56・5輌の内の3輌を解体しました。

207・213・214の3輌達は、既にアスベスト処理された後で、車内はカラッポ状態でしたが、その外観はマイナス20度近い厳寒にも関わらず、久しぶりの晴天にクッキリ照らされ、当時を偲ぶ美しさでした。

特に214号車は、あの80特急の車輛が足らなかった頃に、混ざって大活躍した名機です。種別幕を外してみると、そこには「準急」「急行」「急行」そして「特急」と布幕にしっかりと書かれていました。

残るは2輌のみになりましたが、56達の力強かった加速音を今も忘れる事が出来ず、そして多くの人達の夢を運んだ功績に感謝でいっぱいです。
解体終了後、無謀にも外気温-20度を越える中、足寄の駅へ立ち寄りました。町は相変わらずでしたが、三セクとしての駅は、大変立派に変身していました。ホーム脇には、だれも見る人がいないのに、ご覧のようにカワイイポケモンが輝いていました。「ふるさと銀河線」がんばれ!!
昨夜は車中泊でいこうと思っていましたが、「もしかして死ぬ?」と感じ、ラーメン屋のママに紹介してもらって、名ばかりのビジネスホテルに泊まりました。朝。車に戻ってみると、缶コーヒー5本共全てカチンコチンでした。やっぱり死んでたと感じた瞬間でした・・・。ここまで来たんだから日本一厳寒の地「陸別」へ行こうという事になり、途中よったのが、画像の「およち」駅です。当然無人駅です。駅前通りも健在でしたが、平均年齢70歳の町でした。ネクターの缶ジュースを買ったら、賞味期限は一年前に切れていました。こまかな事にこだわっていると、生きては行けないのです。この日の最低気温は-33℃でした。もうここまで来ると怖いものが無いって感じですネ。脳みそが凍りつく瞬間を体験出来ます。ぜひどうぞ!!
居酒屋「からまつ」開店!!なーんてのは冗談ですが、足寄駅近くに発見しました。他人とは思えず、ついつい・・・。ちなみに駅裏には、カラマツ幼稚園もあるんです。からまつ名のルーツは足寄かも?確かに続く大雪原には、からまつ林がどこまでも続いていました。
    北海道のおもしろい情報や、ミステリアス・スポットなどをご紹介していきます。

-----店長へのご質問・ご相談はお気軽に直行メールか直接お電話下さい。(011)261-8009-----

店長直行メール

トップページに戻る